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口唇裂の戦国武将

赤備え 真田幸村大河ドラマの<おんな城主直虎>も終盤が近づいてきました。井伊谷の領有を認められた井伊万千代はこのあと元服して井伊直政と名乗り、小牧長久手の戦い(1584年)や関ヶ原の合戦(1600年)では部隊は赤備えといわれる朱色の軍装で活躍します。
後の大阪夏の陣(1615年)では真田幸村の部隊も赤備えで出撃して最期をとげています。赤備えで名をはせた人が2年連続大河ドラマで放送されるのは偶然なのでしょうが、強い武将の一団があえて目立つ赤い甲冑を着ていると、より敵を圧倒する効果があったのでしょう。
 
この井伊直政や真田幸村の赤備え、本家本元は武田信玄四天王の一人山県昌景という武将で、前触れが長くなりましたが、この山県昌景は口唇裂があったといわれています。昌景は身長が130〜140センチ程度と当時としても小柄で、やせていたようですが、山県隊の赤備えは非常に精強で諸大名から畏怖されたようで、赤備えは最強部隊の代名詞的な扱いになったようです。
 
昌景は戦に強かっただけでなく、各地の国人との折衝で外交的手腕を見せたほか、信玄臨終の際には馬場信春とともに遺命を託されるなど、信玄の信頼が篤かったようです。
昌景は長篠の合戦に際して新しい主君の武田勝頼に撤退を進言するもののその意見を退けられ、決戦に挑んで敗れ、その戦で昌景は討ち死にします。数年後武田家は滅亡しますが、家康はその際武田の遺臣を井伊直政に預け、昌景にあやかって直政にも赤備えで部隊を編成させます。
 
昌景の時代、おそらく唇裂口蓋裂の手術は行われてなかったと思われます。完全唇顎口蓋裂で生まれた場合、経鼻栄養や点滴といった医療が期待できない中、命を全うできなかった子供さんも多かったことでしょう。
完全な口蓋裂が未治療であれば構音不明瞭になり、外交交渉役に選ばれることもなかったのではないかと推測され、昌景自身は唇裂ないしは唇顎裂の未治療な状態が想像されますが、それでもみための状態としてのハンデ、背格好でのハンデを押しのけ、信玄の信任を得るからには見た目・体格に勝る武将として人としての大きな器を備えていたのでしょう。

 

家康は三方ヶ原の合戦で武田に散々に打ち破られており、赤備えの昌景に対する畏怖や尊敬の念をやはり持っていたのでしょうか。後年、家臣に唇裂の子供が生まれると、この子は山県昌景のような強い武将になるであろうから大事に育てよ、と励ましたとか。
当事者や当事者の家族に対しての声のかけ方は当然ながら十人十色、まだまだ家康の足下にも及びません。


広島市民病院形成外科 木村 得尚



※参考:Wikipedia 井伊直政、山県昌景